実験的オルタナティブメディア ラウンドアバウトジャーナル

SANY0419

 ゲストはラウンドアバウトジャーナル(以下、RAJ)の藤村龍至氏と山崎泰寛氏。
 先日、別のイベントで二人はRAJの「手の内側」を明かしてくれた。「議論を次から次へとつなげていく」という方法は、その途中で議論に参加しようとする人にとってむしろ排他的な議論の内容になるのではないか、その「議論のつなげ方」自体がRAJの議論が「閉じている」という印象を持たせることになっているのではないか、という指摘もあった。
 こうした質問に対し、ふたりは「分かる人だけが分かればいい」という決意を新たにし、「議論が閉じているとか開いているという話題自体が面白くない」という話にもなった。まず、彼らは議論をその都度ごとに切り分けたくないと思っている。だから、常に議論が続いているような場をつくろうとする。先日のRAJも、それ以前のイベントから議論がつながっているという。そして、その議論は今回の「けんちくの手帖」につながった。そうやって同じような議論を繰り返すという無駄を排除しようとしている。元を正せばRAJはふたりが自分たちで始めた活動である。自分たちが勉強しようと思っていろんな人たちを呼んで議論して、その内容を発信しているだけである。となれば、誰に遠慮する必要があろうか。たまたま集まってきた人たちが、「途中参加者にも分かりやすいメディアにすべきだ」と吼えるのは少し違うのではないか、とも思うのである。
 けんちくの手帖に出演しただけで[tcy]80[/tcy]名もの人を集めてしまうほどの2人である。望むと望まざるとに関わらず、RAJはすでに個人的な勉強会の枠を超えてしまったのだろう。本人たちは今でもプライベートな勉強の場だと感じているのかもしれないが、すでに規模が持つパブリックネスというものが発生してしまっている。だからこそ、「議論が閉じている」という指摘があるのだろう。関わる人の数が一定規模を超えたとき、不可避的に生じる公共性にどう対応するのか。RAJがこれからどんなマネジメントを展開するのか、とても興味深い。(山崎)



ロングバージョン/けんちくの手帖スタッフの山崎のブログより

Studio-L blog
ラウンドアバウトジャーナルの議論はなぜ「閉じている」と言われるのか。

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